新民族主義原理~自死した「ある友人」が遺した論文

海

はじめに

私が若い頃(2000年代初頭)大学卒業してフリーターをしていた頃に知り合った「ある友人」が執筆した論文を紹介※します。
その友人は2000年代半ばに自死しました。
理由は就職難による経済的苦境によるものです。
高学歴ながらフリーターとして「レベルの低い」労働を行って生活することへの恥辱を感じていたようです。
この論文には不遇な人生を送っていたことによる日本社会への激しい憎悪が反映されているのではないでしょうか?
「ある友人」の能力が生かされなかった時代を残念に思うと同時に、彼の冥福を心からお祈りします。

※生前口頭での公開許可を得ています。

新民族主義原理

1 序論

本稿は、共同体尊重思想、具体的に言うと民族主義的、国家主義的思想について記述している。但し、我が国の従来の民族主義とはいくつかの点で異なる。単なる伝統主義、保守主義ではなく、共同体の利益を最優先することによるものである。
1章では、「集団」を単位とした抽象的な議論を行い、2章では「国家」、「民族」を単位としたより具体的な議論を行い、3章では簡単な日本国の現状の叙述と政策提言を行っている。抽象的な議論が嫌いな方は、1章を読み飛ばしても構わない。
 本稿の記述が現実世界に影響を及ぼすことを望む。

2抽象的な世界

(1)世界の構成要素

 本章では、単純化された世界を考えて、そのような世界では、どのようなことが起こるか、どうあるべきかという問題について分析する。
単純に考えると、この世界は、人間と資源と空間によって成立していると言える。資源とは、人間にとって有益なもの(人間が欲するものと置き換えても良い)である。何が有益で、何が有益でないかということは、個人によって異なるので、明確に定義することが出来ない。ある人間にとっては、ビンのふたが価値あるものかもしれないし、他の人にとってはただのゴミかもしれない。しかし、ビンのふたに関心がない人間がそれを所有していた場合、ビンのふたのコレクターに対して、自分が欲しているものとの交換を申し出ることが出来るかもしれない。貨幣や市場が存在する場合では、ビンのふたに価格がついて、市場で売ることが出来るかもしれない。従って、少なくとも誰かが有益であると思うものは、全ての人間にとって有益なものとなる可能性があると言うことが出来るだろう。価格が存在する世界では、マイナスの価格がつかないものという言い方が出来る。資源について、具体的には、石油、食料などの他、鉱物資源によって生産された工業製品なども含まれる。資源は、通常有体物であり、空間の中の一定の領域を占める。空間は有限なので、全ての資源は有限である。ところで、人間は、ある資源に他の資源を投下することで、新しい資源を作り出すことができる。この過程を生産と呼ぶが、生産の過程において、常に人間が労働を投下する。この場合、人間それ自体が有益な存在になるので、人間そのものが資源と言える。実際に、人的資源という言葉もある。資源にも様々な性質があり、例えば、鉱物資源と食料資源は性質が異なる。
人間は、部族、民族、国家などを単位で、何らかのまとまりをなしている。そのようなまとまりは、通常歴史的に形成されたものである。そのまとまりを、人間集団と呼ぶ。人間集団は、一定の空間の上に存在する。その一定の空間を領域と呼ぶ。例えば、Aという人間集団が存在する空間をAの領域というように呼ぶのである。ある人間集団の領域に存在する資源はその集団の所有物となる。
時間は実際には連続的であるが、一年、一ヶ月、一日というように一定の期間が意味を持つことが多い。人間は、一定期間の間隔ごとに意思決定をして、行動を行うと考えることが出来る。

(2)人間集団について

人間は、資源を消費することで、生存することが可能であり、また、単なる生存以上に、欲望を充たすことが可能になる。初期の段階で自分が保有する資源は、通常自分が必要としている資源の種類と量を充たしていない。従って、資源を獲得しようという衝動に駆られた人間は、そのための行動をする。資源を獲得する方法は三つある。(1)他人の所有する資源を奪う、(2)他の人間と資源を交換し合う、(3)資源を投下することで新しい資源を作り出す、である。人間はそれぞれの資源を持つと同時に他の人間が持つ資源の獲得を目的として資源獲得競争を行っているのである。
(1)において、闘争が起こる場合がある。闘争とは、文字通り争いのことであり、相手の肉体に損害を与えることを意図とした一連の行為である。闘争の結果、傷を負い、死ぬことも有り得る。この場合の闘争は、相手に自分の意志を押し付ける目的で行われる。闘争を行う場合に、一人で行うより集団で行う場合の方が、勝利する確率が高まる。勝利とは、相手に損害を与えることで自分の意志を押し付けることが出来る状態にすることである。もちろん、現実は勝利か敗北か完全に確定出来ないで、有利な方と不利な方が存在し、妥協が行われるという場合も多い。発生した結果について、より広範に自分の意図を押し付けることが出来る場合が、より大きな勝利と言える。勝利の確率を高めるために、人間の集団を形成する動機が発生する。闘争が起こる場合は、両者が闘争を行うという意思を持った場合のみである。相手が闘争する意思を持たずに屈服して、資源を明け渡せば闘争は起こらない。他者の資源を奪う手段として、他にも、相手を騙す、盗むなどの手段がある。この場合も、盗まれた、騙された相手が後で闘争を仕掛けることが多い。
(2)は具体的には、商取引などが挙げられる。しかし、この場合のみで、自分が必要とする種類と量の資源を全て獲得できないことも多い。
(3)の場合も集団を形成した方が有利である。ある資源を生産する場合、集団を作り上げ、役割分担をした方が、一人で全てやる場合より、一人当たりの資源の生産量が高まる傾向があるからである。
一人で行動するよりは、集団になった方が、資源を獲得できる可能性が高まるので、集団が形成されると言える。しかし、実態としては、家族集団のような遺伝的に近い集団は最初から存在して、集団を離れるメリットよりデメリットの方が多かったので、集団として存在し続けたと考えるべきであろう。そして、集団でいることの利益より、家族、部族、民族、国家と集団が拡大していった。戦争による他の集団の併合という形式により、集団の拡大が成された場合もあるが、集団の拡大のメリット故に分裂が行われなかったとも考えられる。歴史的に、集団化することの利益が集団を存続させ、発展させたと言えるが、本章では、人間集団が存在するというのは仮定とするのである。
集団が確立されると、集団内の人間の資源獲得競争は一定の制約が課せられるようになる場合が多い。それは、内部で争いを行うことで、他の集団との資源獲得競争に障害が出ることになるからである。そのような制約を行う指導者について次に述べる。
全ての人間集団の人間を合わせた単位を人類と呼ぶことにする。

(3)指導者

人間集団には、指導者と呼ばれる者(複数の人間から構成される機関でも良い)が存在する。指導者とは、人間集団内の全ての人間に何らかの行為、状態を強制する権利を持つ存在である。指導者の目的は、人間集団に与えられた条件下において、人間集団の利益を最大化することである。指導者も人間である以上自己の利益を最大化しようとしたがることは当然である。自己の利益を最大化することが、集団の利益の最大化と矛盾しなければ問題ないが、そうで無い場合、通常の場合、指導者は追放されたり、殺害されることで退場させられる。そもそも、指導者というものが存在する理由は、すべての人間が自己の利益を追求して行動していたら、かえって集団全体の利益が損なわれてしまうので、集団内の個人の利益を制限することが必要になることが多いからである。具体的には、集団がばらばらの行動していたら、他の集団との資源獲得競争に敗退し、集団の構成員の生命が危険に陥る可能性が高くなる。有能で集団の利益を図ることが出来る人間に集団をまかせ、集団の人間の権利を制約してでも、集団全体の利益を守ろうとしたのである。
制度にしろ原理にしろ、長期的に、集団に利益をもたらすものが採用される。指導者が存在する集団と存在しない集団があった場合、前者が集団に多くの利益をもたらす可能性が高いので、長期的には、あらゆる集団で、指導者の存在する制度が採用されるようになる。指導者が自己の利益をはかることを許容する制度と、指導者が集団の利益をはかることを強要する制度があった場合、長期的に後者が採用される。後者の制度は、具体的には、指導者に対する監視体制が整備された制度である。そのような制度が存在していないとしても、自己の利益を追求したり、無能さのために集団を危険に陥れるような指導者は、集団内で反乱を起こされて、指導者の座を追われることになる可能性が高くなるだろう。本章では、制度の淘汰が起こり、無能な指導者は指導者とはなれず、指導者は自己の利益ではなく、集団の利益全体を図った行動をとるものと仮定する。無能ではないとは、与えられた条件下で、どうすれば集団の利益を最大に出来るかを把握することが出来るだけの知性を持っているということを意味する。ところで、通常の場合指導者は全ての情報を完全に入手できる訳ではないので、必要な情報を入手しようと努力するにしろ、与えられた情報の中で行動することになる。現実的には、非合理的な指導者が存在する場合を考えてみるのも重要であろう。
指導者が集団に対して、集団のために行う措置を戦略と呼ぶことにする。戦略の中身は、一定の行為、状態を強制することであることが多い。何もしないことも戦略の一種と言える。
集団内の指導者以外の人間は非合理的な意思決定をする。自分の利益よりも一時の感情を優先させた行動をする場合があるのである。自己の利益を追求することは勿論原則であるが、時々感情に走り、自己の利益を度外視した非理性的な行動を採るのである。憎悪だとか、嫉妬のような感情が意味を持つことになるのである。指導者は、集団成員の持つ非合理的な熱狂を考慮することになる。

(4)集団の利益

次に、集団の利益について説明する。集団内の人間はそれぞれ、資源に対して、利用したいという欲望を持つ。そして、個人によってどのような欲望を持つかということは異なるし、多くの個人はより多くの種類をより大量に消費したいと思うものである。通常の場合、集団内の人間のそれぞれの利益は相反する場合が多い。集団全体の利益をどのように定義づけるべきだろうかという問題に直面することになる。集団の利益は、世界の状態に依存して決まり、状態は指導者の戦略、自然現象などによって生じる。利益は、状態を変数として持つ関数と考えることが出来る。そして、状態は個々の指導者の戦略と偶然性に左右される自然現象に依存するので、集団の利益とは戦略と偶発的事象を変数に持つ関数と考えられる。ここで集団の利益について、簡単な仮定(基準と言っても良い)を置く。
(a)集団において生存する人数が多ければ多いほど、望ましい。(死者が少なければ少ないほど望ましい。)
(b)集団内の人間の生命の価値は等しい。
(c)一人当たりの所有する資源について、ある資源が増加し、全ての資源が減少しなければ、それはより望ましい。
(d)(a)と(c)の基準が衝突した場合には、(a)を優先する。
 (a)について、集団の利益を関数として考えると、二つの戦略があり、他の条件を一定とした時に、生存者数が多い戦略の方が利益の数値が高くなるということを意味する。この場合、生存者数(死者数)が状態になる。 (b)より、特定の個人の生存への欲望を優先させることは否定される。集団内の人間の平等な扱いが要求されるのである。集団の利益を関数と考える時、集団の一人が死ぬ戦略が二つあり、他の条件は一定の時に、人間が異なっても、集団の利益の数値は等しくなるということを意味する。この二つの価値観は、生命尊重原理と、平等原理の価値観に基づくものである。(c)の背後にある価値観は、生活水準が向上することが良いことであるというものである。また、集団内の分配における一定の平等が望ましいことも意味している。集団の利益を関数と考えるとき、二つの戦略があり、他の変数を一定とした時、一人当たりの保有する資源について、全ての資源の保有量が減少せずに、ある資源が増加している戦略の方が数値が高くなることを意味する。(d)は、単なる生活水準の向上よりは、生命の保全の方が価値があるという価値観である。利益を関数で考えると、二つの戦略があり生存者数が異なる場合、資源の量とは無関係に、生存者数のみで利益の大小が決まるということである。生存者数が同じ場合のみ、資源の量が意味を持つということになる。これらの仮定は個人の欲望という定義不可能な要素に依存していなくて、一般的に受け入れられるものと思われる。これらの仮定の他に、例えば、病気の人間の数が減少することが望ましいとか、妥当と思われるものを加えてもいいだろう。
 (a)、(b)の仮定から、集団において、戦略を採ることで可能になった生存者数と死者数の差である数がより大きくなる戦略の方が集団にとって、望ましい、利益になるということを意味する。この差のことを純生存者数と呼ぶことにする。
 利益について、現在時点のみを考慮する場合、将来のことを考慮する場合が考えられるので、二つのケースを分析することになる。将来の現象については、通常不確実性が存在する。不確実性が存在する場合は、生存者数だとかの数値については、期待値ということになる。
集団の利益は具体的にどのように決定されるのだろうか。まず、指導者の戦略に応じて、他の集団の指導者の戦略、その他の条件により、集団の人間の保有する資源の量、種類、集団の生存者数、死者数の状態が決まる。この際、他の指導者の行動については、限られた情報から、他の指導者が合理的に行動した場合のものを予測するという形になるために、実際にそのような行動を採るかどうかは分からない。また、その他の条件についても、不確実性があるために、現実にどのような条件が成就するかは事前にははっきりと分かることは無く、あくまでも確率の問題となる。意思決定の際の集団の利益は、現実の利益と一致しないことが多いのである。上の仮定に基づいて。集団の利益(期待値)が、戦略に応じて相対的に比較できるのである。指導者は、利益最大化の仮定から、最も集団の利益になる戦略を選択することになる。全ての指導者が戦略の選択を行った結果、現実の結果が生じる。

(5)資源獲得について

 資源の獲得方法は、次の四つである。

(1)集団の存在する空間(領域)に最初から存在した資源を利用する。
(2)他の集団から奪う。
(3)他の集団と資源を交換し合う。
(4)資源に手を加えて新しい資源を生産する。

 具体的に(3)は国家間の貿易などであり、(4)は企業の生産活動などになるであろう。この中の(1)から(4)については、指導者が集団内の人間に、一定の行為を強制することで、実行しようとする場合が多い。現実的には、(3)、(4)については、経済活動の一環として、ある程度自由に行われるものであり、政府(指導者)が大きく関与することは、社会主義のような経済体制で無い限り、有り得ないことである。しかし、資源不足で死者が生じる場合には、政府(指導者)が放置することより関与することになることになるのが通常であろう。(2)を実現するためには、具体的には集団内の一部の人間を組織化し、他の集団と闘争を行わせることになる。このようにして組織化された集団を軍隊と呼ぶ。もちろん、騙したり、盗むような戦略も考えられるが、通常の場合成功する確率は低いと思われる。ここで、闘争において、相手に物理的に損害を与える力を武力と呼ぶことにする。武力に圧倒的に差がある二つの集団が存在する場合、より強い方は、実際に闘争を行わずに、脅しだけで、資源を奪うことが出来る場合も有り得る。ここで、どのような条件で、闘争が起こるのか説明する。
空間は有限であり、空間上に存在する資源も有限である。そして、資源の再利用可能率は100%ではない。再利用可能率とはある資源を加工、消費した場合に、その資源を元の状態に戻すことが出来る割合である。例えば、鉄と言う資源を用いて、機械や自動車をを作るとして、元の鉄の状態に戻せる割合が再利用可能率となる。紙を焼いてしまった場合には、再利用可能率はゼロとなる。但し、紙を焼いたとしても、焼いた結果発生した炭素のような物質は存在し、その資源としての物質の量は増加することになる。このような資源の再利用可能率が100%ではない状況で、資源を毎期一定量ずつ消費していけば、資源は減少していくばかりであり、長期的には消滅する。食料資源のように、毎期ある程度産出される資源もあるが、食料資源の生産を増加させるには、化学肥料のような他の資源の消費が必要であり、他の資源が稀少になれば、食料資源の産出量も減少すると言える。資源の量が少なくなれば、資源の獲得が困難になり、生存できない人間が発生する場合があるのである。再利用可能率が100%だったとしても、人口が過剰のために、毎期獲得できる産出量だけでは生存できない人間が生じる場合もあり得る。もう少し具体的にいうと、一人当たりの生存に必要な資源の量を一定とした時、その期の集団全体の人口により、生存に必要な資源の総量が決まる。もしその期に必要な資源の量が、その期に獲得出来る資源量より少なければ、生存できない人間が発生すると言うことである。そこで、資源が(1)と(3)と(4)の手段だけでは、集団内の人間全てが生存できるだけの資源の量と種類が獲得できない場合を考える。この時、闘争という手段が考えられるが必ず闘争が起きるわけではない。何故なら、闘争を行う場合には、死者が発生する可能性が高いからだ。(c)の仮定から、闘争の結果全ての資源が増加乃至減少しなければ、闘争を行うべきであるということになる。集団が獲得した資源を、全ての集団の構成員について増加するように分配すれば、望ましいことになるからである。しかし、(d)の仮定より、死者が出る場合には、生存者数の多少のみが問題になるのである。逆に言うと、死者の全くでないと期待される闘争(現実的に有り得ないが)で、闘争の結果全ての資源が増大すると期待されるなら、闘争をやった方が集団の利益になるということになる。死者数(不確実性があるので通常は期待値になる)は、相手の集団の武力、自分の集団の武力、双方の採る戦略、その他偶発的事象などによって決まる。武力とは、相手の集団の人間に物理的に損害を与える力であり、有形無形様々な要素によって成り立つ。武力の水準の決定も戦略の一種であると言える。よって、死者数は、戦略と偶発的事象によって決まるのである。闘争の結果として得られる資源により、生存が可能になる人間も生じる。仮定の(a)、(b)より、闘争によって資源を獲得することで生存が可能になる人数と闘争によって死亡する人数の差が、闘争を行わないで他の選択をした場合の生存者と死者の数の差の内の最も多い値を上回ると期待される場合、闘争を行うことは、闘争を行わないあらゆる手段より望ましいということになる。(b)の仮定が必要なのは、集団内の人間の生命の価値が等しくなければ、人数の比較が不可能だからである。闘争を行う際には、他の集団の死者が発生するかもしれないが、倫理的な問題は考慮の対象としない。指導者の役割が集団の利益の最大化であり、自己の集団以外の利益を考慮する必要は無いのである。
闘争において、通常多くの資源が必要になる。武器や兵糧が必要であり、闘争の結果、これらを生産するのに必要な資源が減少するのである。闘争の結果獲得できる資源が闘争に必要な資源と一致しないかもしれない。ただし、闘争の結果獲得された資源を他の資源と交換出来る。そのため、闘争の結果減少した資源を補うことが可能なのである。死者数が出ないと予測される闘争について、一種類の大量の資源が得られると期待されるなら、(c)の仮定から、望ましいので実行すべきということになる。
ところで、闘争は、戦略そのものと考えることも出来るが、様々な戦略によって実現されるものでもある。戦略の組み合わせは膨大にあるので、闘争の形態もたくさんある。例を挙げると、死者がなるべく出ないような闘争のやり方もあるだろうし、生命軽視のやり方もあるだろう。上で示した条件で闘争が行うにしろ、利益の仮定に従い、もっとも集団の利益になるやり方を選んで、闘争を行うとのは当然である。
次に将来の利益を考えた場合はどうなるのであろうか。将来の利益と現在の利益を同質に考えるべきかという問題があるが、同じように考えてみる。(通常の場合は、同じように考えるのではなく、遠い将来のことになればなるほど、軽視するものである。)例を挙げると、今年の集団の利益に来年の集団の利益を足した値が、今年と来年の集団の利益の値となるのである。現在存在していない集団の成員と現在の集団の成員の生命の価値は等しいということを意味する。この場合、闘争を行い、資源を獲得したことによって生存できた人数だけでなく、それによって将来発生する子孫の数を考慮しなければならなくなる。ところで、闘争以外の方法では、集団全員の生存させることが不可能なことを仮定してきたが、将来の利益を考える場合には、必ずしもそうした仮定がなくても闘争が起こり得ることもある。現時点での必要な資源の量と種類を闘争を用いないでも確保できる場合において、闘争することで生存に必要以上の資源を確保し、備蓄することで将来の人間の生存者数を増やすことが出来る時には、闘争は起こり得る。現時点では、集団が生存の危機に瀕していなくても、敢えて将来の生存のために犠牲を伴った闘争を行うことがあるのである。将来の集団の構成員と現在の構成員の生命の価値を平等に考える結果である。ところで、将来の利益を考慮する場合は、現在の戦略だけでなく、将来の戦略も含んだ戦略の集合を考え出すことになる。このような戦略の集合は戦略そのものと考えることが出来る。遠い将来までの戦略の集まりは、現実に結果が発生するたびに、その結果から得られる情報を基に、その情報の基で最も合理的になるように修正されていく。従って、一度決定した戦略が絶対に実行されるとは限らない。現実に発生した結果を基に、戦略の集まりとしての戦略は変化していくのである。
ところで、資源の少ない世界について、具体的に考えてみる。資源a、人間集団1、2が存在するとする。人間集団1、2には、それぞれ100人の人間がいるとする。資源aを消費することで、人々は生存が可能になる。aは毎年一定量だけ産出されるが、その量では人間集団1、2の全員を生存させることはできない。仮に、毎年100の人間しか養えないとする。そして、資源aは、集団1が独占しているものとする。将来のことは考慮しないことにする。この時、集団2には、闘争するという戦略と、何もしないという戦略があるとした時、何もしなければ集団2の生存者数と死者数の差(純生存者数)はマイナス100である。闘争の死者数が100以下、闘争の結果可能になる生存者数が1以上と予測される場合は、集団2の生存者数と死者数の差(純生存者数)がマイナス99以上になるので、闘争した方がいいということになる。よって、集団2の指導者は、資源aを獲得するために闘争を決意し、1が闘争の前に降伏しない限り、1、2の間に闘争が起こることになる。闘争の結果、妥協が成立する場合もある。
すべての指導者が他の戦略を行う誘因を持たない状態である均衡が存在するにしても、それがどの戦略の組み合わせになるかは、様々な要素に依存する。ただし、生存に必要な資源が少なければ少ないほど、何もしないと戦略を採ることにより期待される死者数が大きくなるので、闘争という手段を採る誘因が高まるであろう。資源が極端に少なければ、全ての指導者が闘争という戦略を選択する均衡というものが存在する可能性もあるだろう。そのような世界は悲惨極まりないであろうが、合理的な選択の結果なのである。
指導者は、闘争において、武力を高めることで、勝利する確率を高める措置を行うことが出来る。具体的には、闘争に従事する者である軍人を増やすこと、武器の開発と生産、軍隊の訓練、士気を上げることなどである。より優れた武器を開発するためには、技術水準を高めることが重要である。軍隊を増加させること、武器の開発と生産、軍隊の訓練などを行うことにより、(4)に対する障害になる。他の資源の生産をするための、労働力が奪われるからだ。この場合も、どの程度の水準まで行うかは、集団の利益がどうなるかの検討の結果となる。士気の向上について、効果的なのは、イデオロギーや宗教を用いることである。特に民族主義のような集団の結束を高める思想を用いることは、士気を、そのために武力を向上させ、闘争に勝利する確率を高めることになるであろう。逆に言うと、集団内の結束を弱める思想は、集団の武力を弱める結果となるので、指導者としては、排除することが望ましい場合が多いだろう。具体的には、階級対立を煽る思想、男女間の対立を煽る思想は、内部分裂を促進し、士気を下げることで、武力を弱めることになるであろう。武力の強弱は、人口の多少に左右されるので、人口を増やすことは、武力の強化にはプラスに働く。但し、人口が増加しすぎると、集団の生存を可能にするために必要な資源の量が多くなるので、生存できない人間が増加する可能性が高まるという問題もある。武力が不足している場合には、武力が強力な集団と同盟や条約を結んで、その武力を頼みにすることも出来るであろう。このような、集団の利益のために他の集団に関与する行為を外交というのである。同盟だとか条約というのは、資源を獲得するための闘争を行う上での手段であり、目的になることは無いのである。
(1)、(3)、(4)により生存に必要な資源が獲得できるかどうかとは無関係に、他の集団から闘争を仕掛けられる場合も存在する。この場合、指導者の合理性を仮定しているために、相手の指導者は、自分達が有利な結果が生じると考えて、意思決定をしている。そして、不確実性が存在しないで、全ての情報が利用できる場合には、常にそのような結果が生じる。闘争を仕掛けられた指導者は、それに対して、降伏する、闘争をする(どの程度の水準のものを行うかにより種類がある)などの幾つかの選択肢がある。その中で、闘争をしないで、相手に領域内の資源を与えるという選択をすることも有り得る。そのようなことが起こるのは、相手に資源を与えることによる死亡者数が、闘争を行うことによる死亡者数を下回る場合である。資源を多く持っている集団は、そのような事態になることが多いだろう。もちろん、簡単に相手の要求を受け入れた結果としての将来の悪影響を考慮する必要があるだろう。資源を多く持っていない集団は、多くの死者が出ても闘争を行った方がましであるという場合が多いだろう。闘争しないことによる死者が多くなる傾向があるのである。指導者が世界における情報を完全に入手できる場合は、事前にどの集団が闘争を仕掛けてくるか予想がつくので、それに対して、他の集団との同盟、条約などの対策を採ることが出来る場合もある。場合によっては不可能な場合もある。現実的な情報が完全に入手出来ない世界においては、他の集団の動きについては蓋然性の問題になる。
資源とは直接的に無関係に純粋に生存のために闘争が起こることもある。戦略的に重要な空間をめぐる争いである。戦略的に重要な空間を確保することで、他国からの攻撃に対して有利に防衛を行うことが出来て、将来発生するであろう死者数を減らすことが出来るということも考えられるのである。闘争によりその空間を確保することによる生存者数と死者数の差が、闘争以外の他の手段を用いたことによる生存者数と死者数の差を上回っていたら、闘争を行うべきである。
闘争の結果獲得された資源は、集団の構成員に分け与えられることになるが、その際、生存者数が最も多くなるようなやり方で配分されることは当然である。また、(c)の仮定から、特定の人間だけが獲得された資源を占有するのではなく、集団内の全ての人間の所有する資源が増大するように分配することが望ましい。但し、将来と現在を等しく考える場合、(d)の仮定から、将来の集団の人間の生存のために備蓄することの方が望ましい場合もあるので、常に、集団全体に分配すればいいと言う訳ではない。ところで、(1)、(3)、(4)の結果獲得された資源はどうなるであろうか。集団内の自由な経済活動を許容していたら、一方で資源を獲得できずに、死者が発生して、一方で資源を独占して富む人間が生じる可能性がある。(a)、(b)の仮定より、このような状態を放置しておくことは集団全体の利益にならない。完全な自由競争経済において、資源配分の「効率的」な状態が達成されたが、死者が出ている状況を容認することはできないのである。よって、一人でも資源不足で生存できない人間がいる場合には、指導者が他の富める者から資源を取り上げて、分け与えることになる。集団の利益の基準から、生存者数が増加すれば増加するほど望ましいので、このような選択は望ましいのである。指導者の目的は、集団の利益の最大化である以上、集団内の人間の権利を奪うことで達成できるなら、当然行うべきなのである。
今まで同盟とか条約という言葉を用いてきたが、簡潔に解説を行う。同盟や条約は契約の一種であり、集団の間で契約を結ぶことが出来る。資源が豊富にあるが武力が弱い集団は、他の強い集団に、必要な資源を与える見返りに、集団が闘争を仕掛けられた場合に、武力の援助を頼むというような契約などが考えられる。契約を行うかどうかは、集団の利益になるかどうかで、決定されるが、当然契約が絶対的に履行されるとは限らない。何故なら、指導者が、契約を履行するより、履行しないほうが集団の利益になると思えば、履行しないからである。契約を履行しないことで、信用が失われ、他の集団との新しい契約が困難になったり、契約相手からの報復という結果が起こる可能性はあるだろう。そのような不利益も予測した上で、契約の履行、不履行が決定されるのである。契約は絶対のものではないのである。
資源が少ない世界のことを考えてきたが、生存に必要な資源が(2)以外の手段で獲得できる世界について説明する。資源を十分もっている集団は、その資源を他の集団の持つ必要な資源と交換することで、集団の生存に必要な資源を獲得できる。一方、資源をあまり持っていない集団は、何らかの資源を利用して、生産活動を行い、新しい資源を作り出して、その資源と必要な資源を交換する。それにより、必要な資源を獲得できるのである。新しい資源を作り出すために、技術力が必要である。技術力を得るためには、教育が必要である。資源の少ない集団の指導者は、集団の教育を通じて技術水準を向上させることが必要である。技術力が十分になく、必要な資源を平和的な手段で獲得できない集団は、闘争という手段を用いることになる場合も多いであろう。資源が十分に存在する世界で、現在の生存に必要な十分な資源が平和的手段で獲得出来るとしても闘争は起こり得る。将来の集団の構成員の生存のために、現在闘争する方が有利である場合、他の集団から闘争を仕掛けられる場合などである。他の集団から闘争を仕掛けられる可能性がある程度高い状況では、結局資源が少なく闘争が起こりやすい状況と同様に、内部分裂を防ぐ、武力を増強するなどの対策が必要になるだろう。闘争の発生確率が極めて低い状況において、犯罪や暴動のような内部紛争事態は回避することは重要である。犯罪や内部紛争は直接的に集団の人間の生命を脅かすのである。犯罪や内部紛争は、貧富の格差が高まれば高まるほど
起こりやすくなる。貧富の格差とは資源を多く持つ者とそうでないものの保有する資源の量の差である。但し、多いとか少ないとかは明確に定義できず、貧富の格差という概念を明確に定義することも困難である。しかし、集団の中の特定の人々に資源が集中していくような事態が、内部紛争や犯罪を増加させて、集団内の人々の生命を危険に陥れることは事実だ。資源の保有量の少ない人々は、多いものに不満、憎悪の感情を持つものだからだ。集団の人々が寄り多く生存することが集団の利益である以上、指導者は資源の偏在の問題に気を使わなければならない。あまりに貧富の格差が拡大した場合における資源の再配分は、内部紛争、犯罪による死者を抑制する効果があるために、集団にとって利益になることが多いと言える。
 指導者が闘争を決断して、実行させることができると言うことは、指導者がかなり大きな権限を保有していることを意味する。それ程権限を有していないと仮定した場合には、実現可能性が無い戦略は実行されないことになるので、戦略の幅が狭くなるだろう。戦略の選択肢が多い方が、集団にとって利益になる傾向があると言える。具体的に言うと、集団全体の利益からは闘争を実行すべきなのに、指導者の権限が少ないために実行できないなら、集団全体は不利益を被ると言えるからである。指導者が集団全体の利益を最大化するという前提の下で、指導者の広範な権限が許容されると言えるのである。

(6)内部の闘争について

前節において、集団間の闘争について分析してきたが、今度は集団内に二つ以上の小集団が存在する場合を考える。具体的に言うと、一つの国家の中に複数の民族がいる多民族国家のような例が分かりやすいだろう。集団内の小集団は、それぞれを単位に自己の利益を追求しようとするであろう。そして、集団の指導者は集団の利益を追及しようとする。 小集団も指導者を出して、その小集団が集団の保有する資源を出来るだけ多く獲得しようとするのである。小集団同士が集団の資源をめぐり闘争を行う場合もあり得る。闘争の過程で大量の死者が出る可能性があり、闘争の結果、一方が資源を独占するという事態による一方の小集団に死者が大量に出るという結果になる可能性がある。通常の場合、人口が多い小集団が有利である。内部の闘争の結果は集団全体の利益にならないのである。そして、内部での闘争の結果は、外部の集団との関係でもマイナスが多い。他の集団と闘争を行う必要があることもあるし、闘争を仕掛けられる可能性もあるので、武力の増大が必要な場合がある。そのような状況で、内部分裂をすれば、集団の士気が下がった結果、武力が弱まることになる。小集団同士で闘争が行われれば、死者が出るので、直接的に武力は下がることになる。武力が弱まれば、闘争に敗北する確率が高まるので、集団全体にとって、マイナスである。集団の指導者としては、小集団の存在により、集団全体の利益を損なうことを許容出来ないので、小集団という単位の消滅を促進するようにするべきことが多いであろう。具体的には、同化政策である。また、集団をまとめ上げるために、外部に敵を作ったり、イデオロギー、宗教を利用すること考えられる。多民族国家では、支配的な民族の言語を押し付けることで同化しようとする場合は多いし、民族主義よりも愛国主義教育を行うことは多い。しかし、小集団の利益最大化の結果、集団自体が分裂し、それぞれの小集団が一つの集団として独立するような自体になることもあり得る。それは、小集団の指導者が、小集団が独立することによる生存者数の増加と独立のための闘争を行うことで発生する死者数の差が、独立しないで他の手段を用いた時の生存者数と死者数の差の最も大きな値を上回った時である。具体的には、集団内のある支配的な小集団が資源を独占していて、自分達に生存に必要な資源の獲得が困難になる場合などが考えられる。しかし、現実に民族独立などの動きは、利益追求の結果というより、民族主義、宗教、文化、慣習などの違いなどから起こることが多いように思う。これらのものは手段であるが、手段が目的を超えることもあり得るのである。人間の非合理性を過小評価すべきではない。民族と国家の問題は後で詳述する。
一つの集団の中に、小集団が二つ存在すると仮定する。第一の小集団の人口成長率がプラスであり、第二の小集団の人口成長率がマイナスとする。人口成長率が不変であるならば、第一の小集団の人口比率が増加し続けて、長期的には集団が第一の小集団そのものとなる。通常多数派の集団が小集団同士の闘争で有利であり、少数派の集団は資源獲得の点で不利益を被る可能性が高い。集団の指導者は集団に異質な集団が侵入した場合の危険性を考慮することになる。

(7)歴史的観点

歴史的に見ると、人間集団は統合していくと言える。家族が部族になり、部族は民族になり、民族は国家となるように。究極的には、多くの集団は一つの集団となるのだろうか。一つの集団になれば、闘争という現象は起こらず、指導者は専ら人類全体の資源の分配の問題について考えるべきということになる。
集団が統合していった理由は、統合により集団全体に利益があったからである。ある集団と集団が統合することで、人口、武力などが増加し、他の集団との闘争を行う上で有利になるのである。但し、重大な不利益が存在する。それは異質な二つの集団が一つの集団になる過程で、内部紛争が起こる可能性が高いことである。人間は非理性的な存在であり、異なる集団に対して、反発を感じる場合があり、内部紛争が起こり、死者が発生したり、資源の浪費が行われる可能性があるのだ。特に民族主義のような集団をまとめ上げるイデオロギーが強固に浸透している集団においては、内部紛争が苛烈になる可能性高い。集団としての団結意識が強ければ強い程、集団同士の統合は上手くいかない可能性が高くなるのだ。
空間が有限であるので、資源は有限である。資源は毎期消費される。生存に必要な資源が十分に存在する状況においては、技術水準がある程度進歩した段階に到達すれば、人類全体の人口は毎期増加していく傾向がある。そして、資源の再利用可能率は100%ではない。資源の再利用可能率上昇に限界がある状況では、空間全体に存在する資源の総量が減少していく一方であり、その結果毎期の人類全体の獲得できる資源量が低下していく。技術の進歩により、多く獲得できるようになったとしても、将来の資源を食いつぶすだけであり、総存在量の一定割合が獲得できると仮定したら、総量の減少が毎期の獲得量の減少につながる。一人当たりの生存に必要な資源の量を一定だとすると、人類全体の獲得できる資源量と、人口と一人当たりの生存に必要な資源の量の乗数である生存に必要な資源の量が乖離が大きくなればなる程、生存できない人々が増加していく。生存できない人間が増加すると、闘争しない場合に生存できない人口が増加するために、闘争のメリットが増加して、闘争の確率が高まる。時間が経過するほど、資源総量が減少するので、闘争が起こりやすくなるのである。人類の歴史を見ると、技術水準は一貫して上昇していった。技術力の向上は、人々が情報を入手しやすくする。指導者は集団の利益のために、集団を団結させる民族主義のような思想を流布させようとする。生存に必要な資源が少なくなり、闘争が起こりやすい状況では、指導者として集団をまとめ上げる必要性が高くなるので、その傾向が強くなるのである。集団の人間は指導者によって与えられた集団をまとめ上げるための思想に基づく情報を入手し、強固な帰属意識を持つようになる。人間の大半は非合理的な存在であり、与えられた情報をそのまま信じることしか出来ず、情報に懐疑的になったりしないのである。そして、帰属意識に基づき、何らかの行動を行うようになる。情報は感情に影響を与え、感情に影響を与えることで、行動にも影響を与える事が出来るのである。技術水準が向上し、情報の入手が容易になれば用意になる程、人々の帰属意識は高まるようになるのである。帰属意識が高まれば、統合の際の内部紛争の確率が高まる。統合の不利益が高まる結果、集団同士の統合が困難になり、世界には、幾つかの集団が存在すると言う状況で安定することになると思われる。ところで、情報の入手可能性が高まれば高まるほど、価値観が多様になるわけではない。集団をまとめ上げるのに不適切な情報は、集団にとって不利益になる可能性が高いので、指導者により禁止される傾向にあるのである。禁止されないにしても、集団に提供される情報が取捨選択される傾向がある。但し、現実としては、自由主義というイデオロギーが広まることにより、言論の自由、表現の自由が保障され、情報技術の進歩が価値観の多様化という結果をもたらすかもしれない。資源獲得競争が激しくなる状況では、集団の分裂をもたらすイデオロギーは、合理的ではない。
人類全体の獲得できる資源の量が減少して、闘争が起こりやすくなる結果、統合されずに存在する集団の中で、闘争に勝利する集団と敗北する集団が発生する。敗北した集団は人口を減少させ、勝利した集団は、闘争をしなかった場合に比較して、人口の減少を食い止めることが出来る可能性が高い。勝利した結果、人口を増加させることも出来るかもしれない。結局、人類全体において、武力に優れた集団の人口の比率が高まり、そうでない集団の人口の比率が低下していくことになる。資源の総体が減少すれば、人類全体の人口は減少する。
ところで、生存に必要な資源の再利用可能率が100%ではない状況で、人類が存在して、資源を消費していけば、いつか資源がゼロになり、人類は生存できなくなってしまうことになる。しかし、実際はそのような事態は起こり得ない。何故なら、資源は鉱物資源のように空間の中に最初から一定量存在していて、消費すれば減少していくような資源だけではないからである。(超長期的には、石油のような資源も自然に生成されていくが。)植物や動物のような生物としての資源のように、減少したり、増加したりする資源が存在する。気候の変動、病原菌の流行、人間の関与のような様々な要因で、量が変わりうるのである。これらの資源は人類の生存に直接必要な資源であり、ゼロになる確率は低いために、資源不足により人類が消滅する可能性は極めて低いのである。但し、農業によって、食料としての植物、動物資源を増加させるには、他の資源が必要である。化学肥料であるとか、農業用機械、設備などである。従って、鉱物資源のような資源の減少は、食料資源の減少につながる。そのために、鉱物資源のような、消費することで、再利用可能率が完全で無い場合には減少していく資源が稀少化することは、生存に必要な食料資源を減少させることで、生存出来ない人口の増加という結果になるのである。結局のところ、再利用可能率に限界がある状況では、時間の経過は、生存に必要な資源の稀少化、闘争の確率の増加になるのである。-
資源の再利用可能率の上昇が緩慢であるにしても、いつか100%になる場合には、将来的な資源の消滅という事態は避けられる。毎期一定の水準の量の資源は産出される。一人当たりの生存に必要な資源の量は一定だとすると、人類全体という観点で見た場合、生存させることが出来る人間の量が決まる。この時、人類全体の人口が、生存可能な人口より少ない場合、ある集団が資源を独占しているために、闘争が起こるような事態は正当と言えるだろうか。資源を適切に分配することで、全ての人類が生存できるのである。ある集団の生存以上の欲望を充たすために、他の集団の人間の生存の権利を奪うことが許容できるのかと言う問題である。もし、集団の利益の仮定を人類全体に適用すれば、資源を適切に分配することは、人類全体の生存者は高まるので、望ましいということになる。このような状況では、人類全体の観点からは、集団は解体して、統合した方が良いのだろうが、資源を独占している集団にとっては、保有する資源の減少になるし、将来集団の人口が増加して資源不足になる可能性も考慮しなければならない。また、集団への帰属意識が高ければ、統合は困難である。人間全てが自己ではなく人類全体の利益を考慮するような精神構造にならない限り、統合による人類全体の利益が存在したとしても、統合は困難と言えるだろう。
今まで明示的に述べてこなかったが、集団の人口はどのように決定されるのだろうか。出生率がある程度高ければ、集団の獲得できる資源量に応じて決定される生存可能な人口数に近づいて行くことになる。出生率は生物学的原因だけでなく、社会的、経済的、文化的要因によっても、左右される。但し、出生率は操作できない変数ではないので、一定の戦略を用いることで上下させることは可能であるが、現実的には困難だと思われる。集団の人口は、生存可能人口が実際の人口を上回る場合は増加するとは限らないが、生存可能人口が実際の人口を下回る場合は確実に減少する。

3 現実的問題

(1)民族と国家

前章までは、現実世界の問題ではなく、抽象的な世界について考えてきた。本章では、より現実的な世界について考察してみる。
まず、前章では、抽象的な人間集団を単位に資源獲得競争を行っているとしたが、現実には、民族、国家などを単位に資源獲得競争が行われている。
民族とは、言語、文化、慣習、神話、宗教など後天的に獲得される何らかの要素を共有し、構成員が帰属意識を持っている人間集団である。定義上人種とは無関係である。人種とは、先天的な性質によって、区別されるものだからだ。もちろん、自分と同じ人種に、仲間意識を持ったりすることはあり得る。また、民族と国籍は無関係である。現実に中華人民共和国国籍を持つ朝鮮民族が存在する。民族として成立するのに、最も重要なのは、帰属意識である。そして、帰属意識を持たせるのに役立つのが、言語、文化、宗教など集団を他の集団と区別させる要素である。この後天的に獲得される要素の内、最も重要なのは、言語だと思われる。言語とは、容易に形成されやすい。ある集団がもともと一つの言語を話していたのに、地理的要因なので一部の集団が隔離されると、時間の経過により、その小集団の使用する言語は、元々のとかなり変化してしまい、新しい言語と言えるくらいになる。言語が他の集団と違うことを意識すると、自分達が他と区別できる独自の集団であることを意識するようになり、このようにして新しい民族が生まれる。文化や慣習についても、同じように、独自性を意識するようになり、自分達の集団を他と区別するようになり、民族が生まれる。但し、宗教については、同じ民族で複数の異なる宗教を信じる集団が存在することはよくあるので、他と区別させる民族を発生させるのに重要ではないことが多いと思われる。ユダヤ人のように、ユダヤ教という宗教によって、まとまっている民族があるが、これは特殊な事例であろう。この場合は、宗教が特殊であり、宗教によって、自分達の集団が他と異なることを意識していることから、民族が成立しているのである。民族の成立は、自分達と他の集団の違いを意識して、帰属意識を持つことによるものであり、自然に発生していると言える。現実問題として、国家は他の国家から承認されなければ、国家として成立しない。
民族という人間集団の単位の他に、国家という人間集団の単位がある。国家とは、統治機構が存在する一定の領域で生活する人々の集団である。統治機構は、その一定の領域に住む人々の権利を、法律などの形式で、制限することが出来る。統治機構とは、一定の領域を統治する期間であり、一定の領域に権力を行使することが出来る機関なのである。政府と同じ意味である。政府、統治機構は、前章のような考え方をすると、国民全体の利益を最大化するために存在する手段に過ぎないのである。歴史的に見れば、国家の成立は、国王や皇帝などの君主の征服欲によるものだったかもしれないが、指導者が個人の利益を追求する国家の生存は困難だし、非倫理的であると言える。社会において、個人がエゴイズムを追求していてはかえって社会全体にマイナスとなる場合が多いので、信頼出来る人間に権力を付与して社会全体の利益を追求するように行動してもらうことが、政府、国家の存在意義と考えることも出来るだろう。国家の定義を考えると、国家は国民の集合体としての側面を持ち、国民は国家の構成要素である。国家の定義に統治機構や領域が含まれるが、統治機構は国民全体の利益のために存在するのであり、領域は国民の生活の利益のために存在するので、国民の利益と国家の利益は一致するのである。よって、国家利益という時は、国民の利益を意味するということになる。国民と国家を区別して、国家の利益より国民の利益を追求しろなどと主張するのは、非常に奇妙な主張であると言わなければならない。このような主張をする人は、単なる統治機構と国家を混同しているのだろう。国民の利益の中で、最も重要な利益が生存に関する欲求を充足することである。そのため、国家は国民の生存、生存を保障するための安全な環境の整備に努めなければならない。国家は、統治機構は、領域内の人間の生存を可能にするために、軍隊や警察を持つ。軍隊は国家の防衛のためにも必要である。軍隊、警察が存在することで、領域の人間は、犯罪や他国からの侵略への対抗手段が与えられ、生存が保障されるのである。軍隊や警察力の存在を可能にする国家そのものは、人々にとって有益な存在であると言える。
このように、国家の定義は民族の定義と全く違うので、国家と民族が一致するとは限らない。複数の民族から構成される多民族国家が存在するし、二つ以上の国家に一つの民族が分布する場合もある。国家の成立は、歴史的には、権力者の都合によるものだった。民族の分布とは無関係に、自分が支配する領域を国家としていたのである。国家そのものが民族の成立を促す場合もある。政府が、領域内の国民に一つの民族の言語を押し付ける場合などである。大国が自分達の都合で歴史的事情を無視して、国家を成立させることも多い。国家の成立とは、民族のように自然ではなく、人工的に成立する場合が多いのである。人工的に成立した国家は、複数の民族が並存するような形になっていることが多い。歴史的事情を考慮するなら、歴史的に成立した民族と国家を一致させるのが、自然だからである。
複数以上の民族が存在する国家は、常に解体の危険を孕んでいる。民族集団の構成員は自分の民族集団に帰属意識を持ち、民族集団は自分達の利益を追求しようとするために、国家としての一体性に支障が出るからである。多民族国家の政府は、常に国家としての一体性を確保するために、愛国主義的な教育を行い、言語や文化の統一を行おうとするだろう。しかし、複数以上の民族が並存する国家で、単一の言語、文化などを強制する場合は、強制された民族の反発を招く可能性が高い。国家としての一体性を確保するのは困難と言わざるを得ない。特に情報化が進展した社会では、困難さの度合いが高まる。愛国主義と民族主義を混同する人がいるが、これは全く別のものであり、矛盾することが多いのである。民族及び国家の定義から、民族主義は歴史、伝統、文化、言語などへの愛着と関係があるが、愛国心は無関係である。愛国心というのは、国家という単位の中に存在する人々への感情なのである。国家、民族の成立過程からすれば、愛国主義は人工的であり、民族主義は自然的といえるであろう。民族紛争により国家が解体する現象を見れば、愛国主義と民族主義では、民族主義の方が強力であると言える。常に内部分裂、内部紛争、解体の危険性を孕む多民族国家より、一民族一国家という形式が理想的である。仮に複数の民族が存在する場合には、同化させるか、追放するかしなければ、常に内部分裂、解体による弱体化の危険を持つことになる。特に、資源が少ないなどの理由で、戦争が恒常的な状況ででは、内部分裂、内部紛争は国家、国民の破滅につながる危険性を高めるだけである。国家指導者は、単一民族の建設のために政策を行わなければならない。アメリカは一見すると、多くの移民から成り立っているので、多民族国家で、異なった価値観に寛容で同化など有り得ないように思える。しかし、アメリカでは、アメリカ国民はほとんどが英語を話すし、自由とか民主主義とかのアメリカ的価値観を受け入れている。アメリカ政府が意図しているか、意図していないか分からないが、アメリカ社会には、「アメリカ民族」への同化の作用が存在すると思われる。もちろん、歴史、伝統などによって成立した民族ではなく、人工的に成立していると言えるかもしれないが。
理想的な国家の形態は、単一民族国家である。単一民族国家であれば、内部分裂、内部紛争、解体の危険が少なくなるのである。単一民族国家においては、民族主義と愛国主義の区別は無い。国を守ることは、民族を守ることであり、国家の利益は民族の利益である。政府は、民族の利益を最大化することを考えればいいのであり、複数の民族の利害の調整に頭を悩ませる必要が無いのである。単一民族以外の国家は、同化その他の手段で単一民族国家を目指すようになるのは当然である。
民族主義を高める方法として、歴史、言語、文化など民族が共有するものの価値を強調することが良く行われる。歴史教育においては、過去の正当化、栄光の強調が重要であり、客観的な叙述は避けられる。教育の目的の一つが、民族として、国家としての一体感を植え付けることである以上、客観的である必要は無いのである。

(2)政策

資源は有限であり、完全に再利用できない状況において、国家間で資源をめぐる争いは常に起こり得る。そのような争いは、将来および現在の生存のために起こるものであり、国民の最大の利益が生存である以上、勝利することが重要である。勝利とは、相手に損害を与えることで自分達の要求を受け入れさせることが出来る状況にすることである。完全に受け入れさせられない場合もあり、そのような場合は、勝利か敗北か明確に言うことは出来ない。国家としては、日常的に、国家が資源獲得競争に勝利をするための対策を立てておかなければならない。特に資源が少なくて、純粋に平和的な手段だけでは、生存に必要な資源を獲得するのが困難な場合にはそのことが当てはまる。生存のために必要な資源が少ない状況において、国家は何をなすべきか考えてみる。
国際社会は弱肉強食であり、力の原理が支配する。弱者は必要な資源を得ることが出来ず生存を脅かされ、強者は生存に必要以上の資源を獲得して繁栄するという事態が起こりがちである。国家として強くあるためには、国家は武力、軍事力を増強させなければならない。軍事力を増強させるには、技術力の向上、訓練の充実、兵員の確保、士気の向上が必要である。士気の向上、兵員の確保の目的を達成するために、愛国主義イデオロギーに基づく教育などを行うことが有効である。多民族国家においては、愛国主義と民族主義が矛盾する場合が多いので、それ程効果が上がらないかもしれない。単一民族国家の場合は、民族と国家が一致しているので、民族主義イデオロギーと愛国主義イデオロギーは矛盾せずに、愛国教育、民族主義教育は効果的であろう。人口増加も必要不可欠である。ある程度の水準の人口を確保できなければ、兵員を確保することはできないからである。また、人口が少ない国家は、国際社会において、大きな発言力を持つことが出来ず、様々な不利益を被る恐れがある。
軍事力が単独では十分ではない場合に、同盟、条約などの外交的手段が考えられる。ある程度の軍事力を持つ国家と同盟を結ぶなどして、自国への攻撃を抑止したり、有利に戦争を進行させることが可能になるかもしれない。但し、圧倒的な大国との同盟は、事実上の従属という結果に成り、大国も自国の利益を追求するために、生存への障害になる可能性もある。他国に従属して自国の生存をはかることが出来る場合もあるかもしれないが、大国に自国の資源を安く奪われ、自国民の生存が危うくなる場合もあるのだ。すべての国家が自国の利益、自国民の利益を追求する以上、自国の利益にならないと思えば、他国の生存を脅かすことも厭わないだろう。大国に従属し、依存するだけで、自国の利益が常に確保できないということである。
十分な軍事力が確保され、戦争をすることで、国民全体の利益が確保できる場合には、戦争を決断することは当然である。戦争をすることで資源が確保されて国民の長期的な生存が保障されるなら、戦争という手段を用いることは国民の利益になるので、戦争を決断すべきということになる。勿論、戦争によって発生するであろう死者数、戦争の結果獲得できる資源により可能になる生存者数などの結果も考慮することになる。戦争によって発生する被害は恐ろしいというのは、所詮感情論であり、冷徹に国家、民族全体の利益を考えた場合、戦争する価値があれば戦争をするのは当然である。戦争という行為を倫理的な観点で語るべきではない。国民全体の利益になる戦争が善い戦争なのである。資本家だとか特定の集団の利益になるが、全体の利益になっていない可能性がある戦争は悪い戦争という言い方は出来るかもしれない。戦争の結果他国の国民が犠牲になるが、このことは考慮する必要は無い。政府の目的は国民の利益の最大化であり、他国民は無関係なのである。但し、国際社会への悪評が広まることによるマイナスもあるので、そのことも考慮する必要はあるだろう。戦争によって資源を獲得した場合、その資源の分配に一定の平等性は必要である。特定の階級のみに利益をもたらすよりは、国民全体の生活水準が向上することが望ましいのである。もちろん、将来のために備蓄するというのも国益になる場合もあり得る。
政府が気を使わなければ成らないことの一つに国内の内部分裂、内部紛争を防ぐということがある。内部分裂した国家は、国家としての一体性に欠けるために、兵員の士気が低下する。士気が低下すれば軍事力は弱体化し、戦争で敗北して、資源を獲得できなかったり、奪われることで、生存が危うくなる可能性が増加することになるのである。内部分裂が激化して内部紛争が起これば、国民の生存は直接的に脅かされ、他国との戦争で敗退する確率が高まる。特に生存に必要な資源が稀少になり、生存のための戦争が起こりやすい状況では、内部分裂を防止することの重要性が高まる。内部分裂、内部紛争は、政府としては回避しなければならない事態である。そのためには、集団をまとめ上げるための諸政策を行わなければ成らない。多民族国家においては、支配的な民族への同化政策を行うことで、内部の複数の民族を消滅させ、単一民族国家に移行させるようにするべきである。移行過程においては、愛国主義イデオロギーを浸透させなければならない。愛国主義イデオロギーは、単一民族国家移行への過渡期の段階におけるイデオロギーである。同化が完了するなどして成立した単一民族国家においては、民族主義的イデオロギーを流布、浸透させることで一体性を確保して行けば十分である。民族主義イデオロギーは、一つの世界観から合理的に導き出される必然的なイデオロギーなのである。単一民族国家の民族主義、多民族国家の愛国主義イデオロギー以外のイデオロギーの中には、内部分裂を促進する危険なイデオロギーがある。フェミニズムは男女対立を煽り、内部分裂を促進させる思想である。共産主義イデオロギーは階級対立を煽り、内部分裂を促進させる。平和主義は内部分裂を促進しないが、兵員の士気を低下させたり、軍事力の増強の障害になり、国家の生存を危うくする思想であると言わなければならない。表現の自由という考えがあるが、有害なイデオロギーが広まることで国家の生存が危うくなるならば、そのようなイデオロギーが流布することを防止するべきであろう。内部分裂を防ぎ、国民の生存を保つ目的に対して合理的なイデオロギーは、愛国主義、民族主義イデオロギーなのである。但し、人間は非合理的な存在であり、イデオロギーがその存在意義を越えて暴走する可能性はある。集団をまとめ上げるために存在する民族主義のようなイデオロギーが浸透した結果、人々の感情的な行動が国家、民族全体に不利益をもたらすのである。政府がある程度の合理的な政策を決定したが、国民が民族主義的感情により、その政策に反対し、国民全体にとってマイナスになるような政策が採用されるような場合である。政府は集団をまとめ上げるイデオロギーを流布させる際に、このような問題も考慮しておく必要があるだろう。
国家内部には、民族のような集団とは別に様々な種類の集団、団体がある。企業、労働組合、宗教団体などである。これらの集団、団体は自分達の利益を追求しようとするだろう。何故なら、自分達の利益を追求する目的で団体を形成することが多いからである。しかし、これらの団体が利益を追求することによって、国家全体にマイナスが生じる可能性もある。企業が利益を追求するために、労働者を解雇して収入がない状況にしたり、労働者の労度環境を劣悪なものにするかもしれない。企業の利益を追求する行為を放任しておけば、社会全体に極端な貧富の格差が生じる可能性があるのである。その結果、餓死者、自殺者が増加すれば、前章の基準から、国益を損なっていると言える。そうでなくても、貧富の格差が発生することで、貧困層が富裕層に不満や憎悪を持つことで、内部分裂が促進されることは明白であろう。内部分裂が発生するのは、国家全体にとってマイナスの影響があるので、政府としては、貧富の格差が大きくならないように気を使わなければならない。貧富の格差が極端になり、貧困層の怒りが高まれば、犯罪が増加し、暴動、内乱、革命などの内部紛争が起こりやすくなるであろう。犯罪、内乱の増加は国民の生存を直接的に脅かすので、国益に反すると言える。政府は、貧富の格差を是正するために、何らかの対策を行わなければならない。税金により富裕層の財産を取り上げて、補助金を貧困層に与えることは有効であろう。失業は貧困につながりやすいので、企業に労働者の雇用を義務付けたり、労働者の労働環境の改善も重要である。企業や富裕層の権利を制限することになるが、国家全体の利益のために、一部の利益を損なうことはやむをえないのである。経済学では、完全な自由競争経済では、効率的な状態が達成されるとしているが、効率的ではあるが餓死者や餓死寸前の人々が存在するような状態は許容できないのである。全ての人間が利益を追求すれば、利害は衝突し、社会全体にかえって重大な損害が発生する場合がある。政府は、全体の利益になるように利害を調節する役割を持った機関なのである。しかし、現実には、企業によって構成される経済界は多額の資金を有するために、政党への献金を通じて、自分達に有利となるような政策を実行させる危険性が常に存在する。団体は企業に限らず多くの種類があるが、どのような団体であれ、それらの利益追求によって国家全体にマイナスの影響があるなら、政府としては団体の活動を規制するなどの対策を行う必要がある。宗教団体が政治に影響を及ぼすことは多いが、宗教は非合理的であり、国民全体の利益最大化という目的と矛盾することが多い。宗教団体の政治に対する影響は排除しておかなければならない。このことは、宗教団体にとどまらず、多くのイデオロギーによって結合した団体に当てはまることである。国家内部に存在する特殊な組織として、マスメディアというものが存在する。これらの組織は、企業であるために、利益の追求を目的に存在するが、国民に対して以上に大きな影響力を持つ。具体的には、新聞、テレビ、ラジオなどが挙げられるが、放送や記事の情報を通して、国民に一定の知識、意見、印象を与えることが出来るのである。国民は情報に対して、受動的であり、マスコミの印象操作に容易に騙される傾向にある。マスメディアの出す情報の信憑性、意図的に選択された情報から引き出される結論の妥当性に疑念を呈さないのである。マスメディアの国民に対する影響力の大きさを考慮すると、放置しておくことの不利益は大きくなる。戦争が起こる可能性が高い時に、マスメディアが外国勢力に乗っ取られて、国民、民族の団結を弱めるような情報を流されたら、国家利益が損なわれる。そのような状況で、マスコミの情報に一定の統制を行うことは、国家全体の利益になる場合が多い。政府は、マスメディアの流す情報について、国民全体の利益という観点から、管理することは重要である。表現の自由が守られて、国民の生存が危機に瀕する事態は回避すべきなのであろう。
内部分裂、内部紛争は、社会的地位に基づく差別などでも起こり得る。人間は非合理的な存在であり、人間同士で序列を作る傾向にある。ある職業が上であり、ある職業が下であるという意識を持ちやすい。職業だけでなく、学歴、家柄などでも差別的感情を持つ傾向にある。他人を侮蔑することで、優越感を持つのは人間の自然な心理である。こういった職業、家柄などに序列を作る差別意識は、内部分裂、内部紛争の根源となりやすい。民族、国家の成員が平等であるという意識を植え付けることは、国家として、民族としての一体化にとって重要であると思われる。法律上の差別は当然、心理的な差別を除去していくことが重要である。そのために、教育、宣伝は重要である。経済的理由による実体としての階級だけでなく、心理上の階級も消滅させなければならないのである。
政府が充実させなければならないものの一つに教育がある。資源が十分に存在し、貿易のような平和的手段で、生存に必要な資源が獲得できる場合もある。しかし、生存に必要な重要な資源が少ないが、交換出来る資源が少ない国家がある。このような国家は、戦争によって資源を奪うか、資源を加工して新しい資源を作り出して輸出して外貨を稼ぐしかない。輸出可能なほど価値のある新しい資源を生産するには高い技術水準が必要であり、高い技術水準を保つには十分な教育が必要である。資源が少なくて、戦争によってしか生存に必要な資源を獲得できない場合にも、高い技術水準、十分な教育水準が必要である。高度な軍事力が戦争に勝利するために必要であり、高度な軍事力を確保するには高度な技術力が必要だからだ。また、技術力を高めることで、資源の再利用可能率を高めることが出来る。原子力などの代替エネルギーも技術力の向上から生まれた。技術力の向上は、資源減少の問題の解決にとって重要であり、政府は、技術力の向上、そのための教育水準の向上に力を入れるべきである。技術水準の向上のためには、教育以外に、政府による補助金などを通じた技術開発の奨励も有効であろう。技術水準の向上のための教育だけではなく、国家、民族として一体性を確保する教育も重要である。内部分裂、内部紛争を防ぐことは重要なのである。実際に、愛国心、民族主義を強調する教育は、ほとんどの国家で行われている。単一民族国家なら、民族主義教育で、多民族国家では、愛国主義教育となるだろう。
通常政府は法律を制定する。言うまでも無いことだが、法律は国家利益追求のための手段であって、目的ではない。刑法が存在する目的は、犯罪を防ぐことで、国民の生命、財産等を守り、国民の利益を守ることである。民法の目的は、国民同士の争いを解決し、国民の利益を守ることである。法律絶対主義的思考は、法律の存在する趣旨を忘却した奇妙な主張である。ある法律が国民の利益を損なっているのであれば、廃止されるべきである。この場合の法律には憲法も含まれる。憲法も国民の利益を追求するための手段であり、絶対的なものではなく、国民の利益を損なうイデオロギーに基づいた憲法を、教典のように扱う必要は無いのである。法律制定者の中には、特定のイデオロギーに基づいた法律を制定しようとするものがいる。彼らは、国家利益を損なう可能性がある存在であると言うべきであろう。イデオロギーも法律も国家利益のための手段にすぎないのである。
政府への外国勢力の侵入と言う事態は起こり得る。外国も国益を追求し、国益になると考えれば、工作活動を行うのは当然である。その結果、政府の採る政策が、外国の利益に沿うものとなり、自国の国益を損なうものとなる可能性がある。また、重要な国家機密が他国に流される場合もある。戦争が起こりそうな状況では、軍事機密が漏洩するのは、自国民の死者を増加させる可能性を高めるので、国家利益を損なう。政府だけでなく、マスコミに外国勢力が浸透し、国家を分裂させるような扇動を行う場合もあり得る。マスメディアの国民に対する影響力の大きさを考えると、事態は軽視できない。国家指導者は、政治的権力を行使する機構、その他影響力の大きな組織への外国勢力の侵入を防止に努めなければならない。具体的には、外国勢力の工作員には死刑等の厳罰に処する、組織への加入の際の厳重な調査、疑わしい者への徹底調査などの手段が考えられるだろう。マスメディアの統制は、私的団体の活動の制限になるが、国家全体の利益の観点から、正当化されるのである。国家機密の漏洩、誤った政策への誘導により多くの国民が犠牲になる可能性を考えると、私的団体、私人への権利制限は当然だと言える。政府への外国勢力の浸透が進んでいる場合は、外国勢力の取り締まり自体がまともに行われない可能性もあるだろう。このような事情からも、統治機構への外国勢力の侵入されないようにすべきなのである。他国の国益を損なうことが自国の国益になれば、他国の国家利益追求の活動を妨害するのは自然であり、取り締まりが甘い国家は、国益を損なうだけである。
ところで、死刑制度というものが多くの国家で存在し、この制度がある国家では、犯罪者の生命を国家が奪うことが出来る。国民の生命を奪うという点で、国民の利益の基準と適合しないように思えるかもしれないが、そうではない。将来にわたって何人も殺害する危険性がある人間を殺害することで、将来の人々の生存を確保することが出来るのである。また、国民が殺人などの重大な犯罪を起こさないようにする抑止効果がある。殺人犯を死刑にすることの将来の純生存者数が、それ以外の手段を用いた場合の純生存者数を上回ると考えられるから、死刑にすることは有益なのである。現実に人間を殺害していない人間を死刑にした方が良い場合もある。国家を裏切って、他の国の利益のために活動している人間を殺害することが国家全体にとって有益な場合は多いだろう。国家への裏切り者が、敵国に国家機密に関する情報を流したり、政府に敵国に有益な政策を取らせたりすることで、戦争になった場合、将来国民の死者を増加させることになるだろう。この種の裏切り者を処刑することで、本人及び他の者の将来の裏切り行為を防止し、国民の生命を救うことが出来る可能性があるのである。裏切り者を殺害することによる将来の純生存者数は、他の手段を用いた場合の純生存者数を上回る場合が多々あると覆われる。殺人犯、裏切り者の殺害は、まさに生命尊重の価値観から導出されるのである。国民の生命の価値は等しい以上、少数の裏切り者の処刑で、多くの国民の生命を救うことが出来るなら、処刑は正当化できるのである。

(3)政治体制

前節で書いたような国民の利益になる政策を行うためには、どのような政治体制が合理的であろうか。制度も戦略の一種と考えることができ、最も国民の利益になる戦略、制度が選択されるべきなのである。国民の利益になる政治体制というのは、政府が集団の利益を最大化しやすい体制である。政治体制には幾つか種類がある。ここで、二つの体制を考えてみる。一つが民主主義体制であり、もう一つが独裁体制である。
民主主義体制とは、国民が主権を持つ政治体制である。国民が国家の統治権力を持つということであり、このことは統治機構の意思決定に国民が影響を及ぼすことが出来ることを意味する。具体的には、統治機構の構成員を国民の間から選挙を通じて選出する、統治機構の意思決定を国民の多数決から決定するなどの方法があろう。国民の統治機構の意思決定に対する影響力が大きければ、大きい程、民主的であると言える。民主主義体制は内容によって、幅がある曖昧な概念なのである。
独裁体制は、特定の人間、少数の人員から構成される集団が統治権力を持つ体制である。独裁体制も幅があり、統治機構の意思決定への影響力に様々な程度がある。一般に独裁体制は悪であり、民主主義体制は善であると言われているが、本稿では従来の常識の囚われず、国民全体の利益という観点から判断していくことが重要である。
民主主義体制において、国民が直接政策を決定する制度がある。このような制度は、一見すると、国民の利益の最大にするようなシステムだと思えるがそうではない。何故なら、国民の多くの知的水準は限定的であり、また思考法が近視眼的でもあるために、国民の大多数の選択が国民全体の長期的な利益と合致するとは限らないからだ。一般の国民に複雑な政治、経済、社会問題への深い知識、分析能力を要求するのは酷である。彼らの多くは、日常の労働、趣味に忙殺され、国家全体の問題を勉強する時間などないし、それを理解する能力も欠落しているのである。また、多くの人間にとって、自分達が生きている時代が重要であり、将来のことはどうでもいいと考える傾向にある。しかし、将来にわたって、国家、民族が生存、繁栄していくことは重要であり、現在だけでなく、将来の国民の利益も考慮することは重要なのである。国民が直接的に国家政策を決定するという制度は、問題が多いと言えるだろう。次に、国民が統治機構の構成員を選挙で選出するシステムについて考えてみる。この制度にも、同じような問題がある。多くの国民に、人間の能力、人格を見抜く能力があると言えないし、その人間が実行するという政策の当否を判断する知識、能力が欠如している。統治機構の構成員として最も適切なのが、国民全体の利益を最大にするように行動する人間である。しかし、大衆は、候補者の外見であるとか、経歴であるとか、話し方のような表面的な要素で投票するかどうか決める傾向がある。政策は重要ではないし、重視したとしても、合理的な判断が出来ない場合が多い。外国勢力の利益をはかる意図を持つ人間が統治機構の構成員に立候補して、その人間の外見が優れているという理由で選出されてしまうかもしれない。彼は、国家、国民の運命を危険に陥れる可能性があるだろう。統治機構の構成員を選挙で選出するという制度にも問題があるのである。
独裁体制にも問題がある。国家全体の利益を追求できる能力と人格を持った人間が独裁者になれば良いが、そうでなければ、国民は悲惨なことになる可能性が高い。国民の利益と独裁者個人の利益が一致しない場合が多いのである。但し、国民の利益を最大にするという意図を持ち、それを実行できる有能な人間が独裁者になった場合は、独裁体制は望ましいと言える。多くの人間に権限が分散されている体制では、有能で国民の利益を考える人間の提案する合理的な政策が、権限を持つ人間の不当な反対により、実行されるのが困難になる可能性があるからだ。民主主義制度においては、権限が分散しがちである。特に、戦争などの緊急時には独裁体制が有利になる場合が多い。緊急時には、素早い意思決定が必要となることが多いが、権限が分散した体制では、意思決定そのもの、決定された事項の実行に時間がかかりやすい。もちろん素早い意思決定を独裁者が行うにしても、有能で国民全体の利益を考慮する人間でなければ、破滅的な結果を招くであろう。民主主義制度よりも、最悪な結果をもたらす危険が多い。ただ、戦争のような状況では、勝利することが重要な目標となるが、敗退の結果は独裁者自身に悪い運命をもたらす。戦争での敗退の結果は、独裁者の追放であったり、死刑になるかもしれない。戦争に勝利するという目的において、独裁者と国民の利益が一致するのである。独裁体制が常に悪ではないということであり、有能で国民の利益を最大にしようとする意図を持つ人間が選出されるならば、望ましいことがあるということである。もちろん、選挙については、国民の能力の限界という民主主義と同じ問題から逃れることは出来ない。また、独裁体制が一度確立されると、体制を変えるのは困難である。国民全体に不利益を与える体制を変えるのが困難なのは問題だと言える。
政治体制に善悪は無い。強いて言うならば、国家の利益を追求することが善であり、国家の利益を損なうことが悪なのである。国家の指導者が国家の利益を最大に出来るような体制が望ましいものである。戦争のような緊急事態においては、国民の生命を守る上で独裁体制が望ましいと思う。極言すれば、政治体制よりもむしろ、政治指導者の資質の方が重要であるとすら言える。国家の利益を最大にするという目的を追求できる利他的な人格、その為の適切な政策を選択できるだけの知性、政策を実行できるだけの行動力がある人間が政治指導者になるのが望ましい。しかし、現実にはそのような人間はほとんど存在しない。存在したとしても、そのような人間が大衆からの支持を得て、政治指導者になることは困難である。近代以降一般化しつつある民主主義社会では、大衆の支持を得るだけの魅力が必要になるのである。大衆の支持を集める魅力は、知性、人格とは無関係であり、外見、話し方などが優れていることが重要である。国家利益を追求できる合理性と、大衆を熱狂させる非合理性を兼ね備えた人間が理想なのである。そのような事情から、優れた政治指導者に恵まれた国家は稀と言える。
政治体制には、中央集権的体制と地方分権的体制がある。権限の分散の程度で、種類は多様になるだろうが、望ましいのは中央集権的体制である。地方に権限を与えて、地方の指導者が地方の利益を追求する政策を行う結果、国家全体の利益を損なう場合もあり得るのである。軍事基地の建設が国家利益の観点から必要な場合に、地方指導者が、地方住民の利益を理由に反対するようなことがあるかもしれないのである。また、地方に大幅な自治を与えることは、内部分裂の確率を増大させ、国家としての一体性を失わせる傾向があるのである。地方の指導者が地域の分離、独立を策動する場合もあるだろう。国家全体の利益を追求する観点からは、中央政府に権限を与えて、全体の利益になるような政策を実行するのが望ましいと言える。
革命、クーデター、暗殺というものは通常、法律によって禁圧される。しかし、革命に正当性がある場合もある。それは、現政権が国家、国民全体の利益を損なっている場合である。具体的には、国内に何らかの政策で防止することができる性質の死者が出ているのに放置している場合、将来にわたり多くの死者が出る恐れがある政策を行っている場合などが挙げられる。このような場合には、革命によって死者が発生するかもしれないが、長期的に国民の利益を追求できる政権を樹立することにより多くの国民の生存を可能にするならば、革命は正当と言える。法律も政権も制度も全て国家利益追求のための手段にすぎないのである。権力者の存在など国家全体の利益に比較したら、全く取るに足らない些細なものと言える。権力者とその一味を殺害することで、より多くの現在、将来の国民の生命を救うことが出来るのであれば、躊躇せずに抹殺すべきである。人命尊重原理から、殺人が肯定されるのである。権力者も、国民の利益を損なえば、革命や暗殺によって殺害されることを考慮するようになれば、国民全体の利益のための政策を行う傾向が高まるだろう。革命を起こす可能性が低い従順な国民は、権力者にやりたい放題される可能性が高まると言える。

(4)経済体制
 
 経済体制には様々な種類があり得る。民間企業にどの程度自由に競争させるか、どの程度政府が規制を行うべきかという点が重要になる。民間企業の経済活動の自由が大きければ、大きいほど、貧富の格差、不平等度が拡大する。人間の能力、元々持っている富の量や人脈などが異なる以上当然である。自由を少なくすれば、少なくするほど、非効率性が高まる。効率という言葉は、平等という言葉のように曖昧だが、資源が過剰供給されたり、過少供給されたりして、人々が欲する量、種類の資源が獲得できなくなる傾向が強くなることである。経済学にはパレート最適という言葉があり、効率性の基準になっている。一人当たりの生産量、生産性という意味でも使われることがある。
経済活動の自由、政府の民間への介入をどの程度の水準まで行うのが妥当なのだろうか。経済学によれば、独占、外部性、公共財が存在しない場合、一定の仮定の下で、政府が全く介入しないで、自由に経済活動を行わせることで効率的な状態が実現できるとのことである。専門用語では、競争均衡はパレート最適であるということである。本稿の集団の利益の基準から、死者が少なくなるような水準が望ましいということになる。経済活動の自由を与えすぎて、富の分配の不平等が高まり、多くの資源を保有する者がいる反面、生存に必要な資源を得ることが出来ない人間が生じる事態が発生することは阻止しなければならない。このような場合には、政府は、富める者から、税金などの形で富を剥奪して、貧しい者に与えるべきである。また、死者が出ていないとしても、貧富の格差が大きすぎて、貧困層の不満から、犯罪、暴動が起こるような状況では、貧富の格差を小さくするような政策を採るべきである。犯罪、暴動から直接に死者が発生する可能性があるし、内部分裂、内部紛争が起こるような事態は、外部との資源獲得競争に勝利する上にマイナスになるからである。貧富の格差が拡大し過ぎないように、ある程度規制を行い、経済活動の自由を抑制するのも止むを得ないと言える。失業が発生する状況においては、政府が失業者を救済する措置を行うことが望ましい。失業者は収入が無いので、餓死しかねないし、失業者の増加は犯罪、暴動など発生率を増加させるからである。具体的な措置としては、失業給付だとか、企業に雇用拡大を強制するなどが考えられる。企業の雇用拡大の強制は、企業の経済活動の自由への制限になるが、企業の利益より国家全体の利益が優先されるのである。企業の労働者への扱いに対する規制が全くない状況では、労働者の生活水準の低下、労働環境の悪化のような事態が起こり得る。労働者の賃金が低下することは、国民一人当たりの獲得できる資源の量を低下させるために、望ましくないので、賃金が低下しないように規制をすることも必要になるだろう。企業は組織として利益を追求するが、そのために労働者の賃金の削減がなされる可能性があるのである。では、共産主義社会では理論的上行われるとされる、完全な富の分配上の平等が達成される制度が望ましいのだろうか。このような場合、努力が報われないので、人々は努力する誘因を喪失する。そのために、生産される財の質、量が低下し、人々は自分が欲しいものが手に入らない可能性が高まる。経済全体の効率性が低下するのである。また、生産性が低下する結果、国民全体の生産、所得が低下し、獲得できる資源が低下するので、利益の仮定からもマイナスであると言える。私企業の存在を認めないで、政府が生産物の供給量を決定する社会主義的制度がある。この制度には重要な欠陥がある。膨大な数の個人の嗜好を把握するのは困難であるために、需要の予測が困難であり、過剰供給、過少供給のような事態を招くのである。中央政府が生産財の供給量を決定する体制は非効率な結果に成ることが多いのである。また、企業の熾烈な競争から、技術革新が起こることが多いが、企業の競争が存在しないために、技術進歩が抑制される傾向がある。技術水準の低下は国家間の資源獲得競争にマイナスの影響を与える。現代の軍事力は、技術力が重要なのである。
経済体制の選択も戦略の選択の一種と言えて、国家利益が最大になる体制を選択すべきである。効率と平等のトレードオフの中で、最も国家利益になる組み合わせを選ぶべきということである。経済活動の自由を与えすぎて貧富の格差が過剰に拡大するのも問題だし、富の平等性を追求して、生産性、技術水準が低下するのも問題である。従って、採用されるべき経済制度は、完全な自由主義的経済でもないし、共産主義的経済でもない、中間的な制度になると思われる。私企業の存在は容認されるが、完全な経済活動の自由は無く、国家利益に反する活動は規制される。当然政治献金等の政治的意思決定過程への影響力を持つ行為は禁止されるべきである。貧富の格差が拡大しないように、累進課税のような税制、失業給付、生活保護のような社会福祉などの制度が存在する。全ての国民の保有が許容される財産額に一定の制限をするのも一つの手段となるだろう。相続税により、階級の固定化という事態を回避することも可能になる。失業に対しては、消滅させるように、またそのダメージを軽減させるようにする。失業は不況のときに発生する傾向があるので、財政、金融政策を実行し、経済成長を高めることは政策としてあり得るだろう。失業給付、職業訓練などはある程度充実させるべきである。
労働力人口の減少を外国からの移民によって補うべきであるという見解があるが、通常の場合、重大な危険性が存在する。その国家を構成する大多数の民族と異質の民族が国家に入り込めば、内部分裂、内部紛争の可能性が高まる。同化政策によってそのような危険性を除去できる場合もあるだろうが、情報化が進展した社会においては、集団としての団結力が強くなるので、同化政策の効果が減少するのである。単一民族国家において、他の民族が導入された場合を考えてみる。民族同士の内部紛争の危険もあるが、人口成長率の差によって引き起こされる問題がある。人口成長率を一定と仮定した場合、単一民族国家に人口成長率がより高い民族が侵入した場合、人口成長率が高い民族が長期的に集団の多数派になるのである。多数派がより大きな力を持つのが通常であり、元々存在した民族は少数派として迫害されることになるのである。獲得された資源配分は多数派に有利になるように行われる傾向があるので、少数派に転落した民族の生存は困難になる場合もあるだろう。純粋に経済的理由で移民を導入して、民族の長期的な破滅を招くのは愚劣であると言うべきである。労働力人口の減少は、自国民、自民族の人口増大によって対処すべきであろう。
資本主義、民主主義社会で、現実的に起こり得る問題として、企業が政府へ大きな影響力を持つことである。企業が政治家、政党に献金することで、自分達の利益になる政策をとらせようとするのである。政党や政治家は政治活動のために、多額の資金が必要であるために、企業からの資金は魅力的である。その結果、企業の利益が優先され、国民全体の利益が損なわれることになる。特に資金力の大きな大企業の政治に対する影響力が大きくなる傾向がある。政府の目的が国家利益の追求である以上、政府への企業の影響力が拡大することは排除していくべきであろう。企業が優先するのは、自社の経済上の利益であり、それは国民の生存を含めた重大な利益と対立する場合があるのである。しかし、現実には、民主主義社会で、企業の献金を廃止するのは困難である。通常個人の資金力には限界があるからである。企業の政治上の意思決定過程への過度な影響力は、民主主義社会、資本主義社会によって生じる国家全体のマイナスと言えるだろう。
経済体制と関連した問題として、「グローバル化」の問題がある。企業の経済活動の国際化が進行する事態によって生じる問題である。企業が企業の利益を追求するにしても、国内活動が大きな割合を占める場合には、行動に一定の制約が課せられる。それは法的な規制であり、消費者の評判、マスコミの批判などによるものである。これらの現象は企業の利益にマイナスの影響を及ぼすために、企業活動に制約を与えるのである。ところが、企業活動のグローバル化が進行すると、国内から得られる利益が相対的に低下するために、国内の批判をそれ程考慮する必要がなくなる。法的な規制にしても、国外の活動を規制することは困難なのである。グローバル化の進行とは、企業の露骨な利益追求を推進するという意味なのである。但し、世界中の法、政治、経済上の制度、文化、慣習は均一ではない。よって、国際的な活動を営む企業にはそれらの差異から発生するリスクを負うことになる。また、進出した先の国家は、自国の企業の利益を考慮することが多いために、グローバル企業にの利益につながらない政策を行う可能性が高いのである。国内市場を軽視し、グローバル化した企業が、まさにそれにより損害を受けるとしても、それは自業自得と言えるであろう。

4 日本国の現状と政策

本章では、日本国の現状とそれに伴い実行すべき政策を簡単に記述する。
日本国は単一民族国家である。アイヌ民族と呼ばれる民族がいるが、非常に少数であり、彼らは日常的に日本語を話している。(「琉球民族)なども同様である。)近似的に単一民族と言える。日本国は日本民族の利益と日本国の国益がほとんど一致する国家であると言える。よって現状では民族の利益と国民の利益は合致する。
日本国には天皇制が存在し、現憲法において国家の象徴である。天皇制は日本の歴史、伝統、文化と密接な関係があり、重要な意味を持つ存在である。日本民族の一体性にとって有益な存在と言える。しかし、旧来の民族主義者のように、絶対視、神聖視するものではない。天皇と言えども、国民全体の利益に奉仕するべき存在である。皇族には我が国の国益を損なう言動を行う権利はなく、その意味で一般人より権利の制限を受ける。言うまでもないことだが、天皇制よりも国民の生存、日本国の存続の方が価値がある。
 日本国は明白に米国の属国である。日本国の政策について、米国の利益と関連した部分、より正確に言うと、米国の利益に関連したと米国政府の考える部分について、米国の意向が反映される。よって、現在の政府の政策は日本国の利益につながらない場合が多いと考えられる。統治機構が日本国の国益を追求する仕組みになっていない。米国と対等だ、とか、日本国は独立国だ、と言う政治家、官僚、評論家は、自己欺瞞をしているか、ただの薄ら馬鹿である。統治機構が国家利益を追求できる仕組みを作る、米国から独立することは日本国の重要な課題である。
日本国は中国と朝鮮半島の脅威にさらされている。中国、朝鮮半島は反日政策をとるばかりではなく、その本質において反日的である。よって、これらの国家の侵略行為に対抗するために軍事力を整備しなければならない。これらの国家群に対して、経済援助を行い、脅威を拡大させてきたのが、政権与党であった。
 上記の問題に対処を可能にする手段は軍事力の強化である。自衛隊を軍隊にし、核武装しなければならない。防衛的兵器のみならず、攻撃的兵器も保有すべきである。
近年自由主義的政策により、貧富の格差の拡大が進行している。内部分裂が進行を防ぐために、格差拡大を防ぐことは重要である。金持ちは国家利益のために犠牲になるべきである。過度に結果の平等性を追求し、労働への誘因を喪失させるのは望ましくないが、貧富の格差が拡大している現状を放置することは許容できない。貧富の格差を縮小させる税制改正が必要である。資産保有の限度を設けることも意義があるだろう。富裕層はそういった政策に反発するだろうが、貧富の格差の拡大により革命が起こった場合に、殺される立場にあることを認識すべきである。
一部の自社の利益しか考慮しない企業は移民導入論を声高に叫び、大企業言いなりの政府が移民導入を検討し始めている。外国人の増加は、犯罪の増加、内部分裂、内部紛争を招く。労働供給の増加による、労働者の労働条件の悪化も招くであろう。移民導入論者は、日本国の国益を損なう連中である。連中は、移民を導入していなくても、留学、観光を名目に大量の外国人を流入させている。経団連、政党、官僚は売国奴、反日本民族主義者の集団であると言える。現在日本国にいる日本国の国益を損なう外国人は即刻追放すべきである。具体的には反日的活動を行う者、犯罪者等である。
少子化の進行はそれ自体が国益に反する。集団の規模が縮小すれば、より大きな規模の集団に吸収されたり、侵略される危険が増加するのである。少子化の進行は、政府が、非正規雇用の拡大など若年層の婚姻率、出産率を低下させる政策を行ってきたことが一因である。若年層の出産の利益を拡大させる、出産しないことの不利益を拡大させる政策を実行するべきである。出産は個人の自由ではない。国民全体の利益が個人の自由に優先される。
高度な技術力は高度な軍事力を意味する。高度な技術力の維持は国家の生存にとって必要不可欠な課題である。政府の予算配分において、技術分野への投資を怠ることあってはならない。精神主義のみで戦争に勝つことは出来ないのである。また、技術水準を高めるためには、教育水準も高度でなければならない。
我が国の食料自給率は低い水準にある。食料は生存に必須であることを考えると望ましい状況とは言えない。国民の生存を他国の好意に委ねていると言えるからである。食料自給率の低さは、国土が山がちのために農業可能な土地が少ないことだけではなく、生産性の低さにも原因ある。農業の大規模化、機械化を推進し、生産性を上昇させることは必要である。最新の遺伝子工学技術を用いた品種改良も躊躇すべきではない。
政策をまとめると以下になる。

・米国からの独立
・中国大陸、朝鮮半島の脅威への対処
・上記目的を達するため核武装を含む軍事力の拡大
・貧富の格差拡大の阻止
・反日的外国人、不良外国人追放、移民導入阻止
・少子化対策
・技術力の発展
・教育水準の向上
・食料自給率の向上

上記の政策を行う上での障害が存在する。日本国の利益を損なう政策を行ってきた連中、そういった政策が実行されるのを助けてきた連中である。その中には、国会議員、官僚、経団連所属企業の社員が含まれ、彼らは我が国の上流階級、支配者層に所属する。彼らは一般に階級内でのみ婚姻を行い、血縁関係を結んでいる。そして、その地位を世襲する。国会議員の子供が国会議員になり、一流企業の子供は一流企業に就職する。これら上流階級は日本国全体の利益に無関心であり、自己及び自己の所属する集団の利益を追求しようとする。彼らは存在自体が日本国の生存への障害である。古いエリートは不要である。彼らは消滅した方が良い。有能で国家、民族の利益のために自己を犠牲に出来る新しいエリートが必要である。新しいエリートにしか上記のような政策は実行できない。特に米国からの独立につながる政策を実行しようとすると、暗殺などの個人的な不利益を被る可能性が高いために、既存の体制から利益を引き出してきた連中には実行すること困難なのである。日本国、上流階級を含む日本民族に害を与える連中、具体的には以下の集団、人間を絶滅させるべきである。

政治家
公務員
経団連
労働組合
マスコミ
反日的知識人
カルト団体
反日的市民団体
その他国家に有害な全存在

自分が新しいエリートであると自覚し、国家、日本民族のために犠牲になることを決意した人間のみが新しいエリートになる資格がある人間である。学歴、職歴、階級は無関係である。同一民族であることが意味を持つ民族主義国家には不要な要素である。新しいエリートが最初に実行すべき政策は、古いエリートの絶滅である。古いエリートが権力を握っている状況では、我が国は衰退に、滅亡に向かい続けるであろう。

補筆

人間集団は、有限な資源をめぐる闘争を行っている。その結果を決定する要因は複数あると考えられるが、人間の質は非常に重要な要因である。より知的水準が高い、より精神力の強い、より肉体の勝っている集団が勝利を収める確率が高いことは言うまでもない。つまり、集団における人間の質は、他の集団との闘争という外部的必要性から要求されるのである。
人間の人格、知性、体格などの要素は、環境的因子と遺伝的因子によって決定される。従って、指導者はこれらを考慮した政策を行わなければならない。具体的には次のようなものになる。

(1)集団において外部との闘争において、必要とする資質を持った人間の比率を決定する。
(2)集団内の生殖をコントロールし、遺伝子の比率を(1)の比率に近づける。
(3)(2)の結果一定の遺伝子を持った子供達の集団が集団内に生成される。A遺伝子を保有した子供達の集団、B遺伝子を保有した子供達の集団のように。これらの小集団に対して、その資質を伸ばせるような教育を与える。但し、内部分裂を防ぐために、集団への忠誠というイデオロギーを植えつけなければならない。
(4)成長した彼らは、外部の集団との闘争にとって、有効な武器になるだろう。

(1)、(2)を実行する上での前提は、分子生物学の十分な発展により、人間の人格、体格、知能への遺伝子の寄与が明らかにされることである。そのような状況において、我々は国家、集団の必要とする遺伝子を、産み出すことが出来るのである。
  (3)を実行する上で、家族制度は障害になる。親の子供への関与は子供の成長にとって重大な影響を及ぼすが、それが子供の保有している遺伝子、資質を伸ばすとは限らない。過保護、虐待などの非合理的な行動で、子供の人格、才能を破壊してしまう危険すら考えられる。単に血縁関係がある人間ではなく、その資格を保有した存在が、最新の科学的知見に基づいて、子供に働きかけを行うのが妥当である。親が子供を育てるというのは人類の古い因習であるが、人間が遺伝子と環境によって生成されていることが明確になっている時代において合理性を持たない。親は単に生殖を行ったことにより子供を作っただけであり、子供を向上させる能力がある訳ではないのは自明の理である。我々は旧習を排除し、子供の資質を伸ばすための働きかけを行うためのシステムを考案すべきである。
 上記についてより具体的な案を出す。
性行為であれ、人工授精であれ、クローンであれ、子供が生まれた場合は、遺伝的な意味での関係者は公的機関に通知を行う。公的機関はその子供について、遺伝子の検査を行う。遺伝子の検査結果に基づき、子供の資質が明確になる。検査が完了するとすぐに子供はその資質を伸ばすための教育を行うための施設に入ることになる。一度施設に入った後、子供は親と会うことは一切禁止される。
施設において、科学的、心理学の最新の知見に基づいた教育を行われ、子供の資質を最大限伸ばすことが出来る。集団への帰属意識を高めるための教育も行われる。子供は自分が誰の親か気にする必要はなく、自分が集団に帰属することを意識し、出自の差別ない環境で生活することになる。親が高学歴であるとか、親が政治家だったとか、親が浮浪者だったとかそのようなことは全て無意味になる。ここにおいて、血縁関係によって成立した階級が消滅する。血縁関係によって成立した階級が消滅し、集団への帰属意識が強い人間が多数になった社会には、内部分裂の危険は小さくなる。内部分裂が存在せず、集団が必要とした資質を持った人間ばかりの集団は、過酷な闘争に勝つ事が出来る可能性が高まるのである。

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